令和の和について考えてみました

令和の和について考えてみました



11月10日に「祝賀御列(しゅくがおんれつ)の儀」が行われました。
これによりことし5月から国事行為として行われてきた「即位の礼」は5つの儀式すべてが終わったとのことです。

こんなニュースを見ながら、
「いよいよ令和が本格的に始まったのだな」なんて感じて喜んでいました。

つらつらと考えをめぐらすうちに、一つの疑問が浮かんでまいりました。

「昭和」~「平成」~「令和」と年号が移り、
私にとっては2度目の「和」の時代が来たわけです。

幼少の頃より、「和が大事だ」とか「日本は和の国だ」と教えられ、そう思ってまいりました。

しかし、私が和と思っている概念は、本当に日本古来の和なのでしょうか?
聖徳太子が憲法十七条の一条で「以和爲貴 (和を以って貴しと爲し)」といった和と、
私がこれが和だと感じているものは同じ感覚のものなのでしょうか?

「和」とは、やわらぐ、おだやか、のどか。
「人の和」とは、「人々が仲良く調和して力を合わせること」だそうですが、
私が思春期を過ごした昭和の時代にあったのは、こういう和ではなかったと今にして思います。

私が思う和のイメージは、
「他の人に迷惑だから、我慢しなさい。」
「みんな我慢しているんだから、我慢できるでしょ。」でした。
他の人、みんなって誰の事だったのでしょうか?

人の和のイメージだって、どちらかといえば、
「長いものには巻かれろ」「組織のためには自分を押し殺せ」でした。

当時を思いかえせば、和とは我慢の上に成り立つ調和でしかありませんでした。
今なら、けしてポジティブなイメージではありませんよね。

でもこんな質の和をポジティブなものとして奉っていました。
随分と都合よく和を使われていたなと思います。

これが和ならば心底嫌だなと思います。

以前、ある講演講師をさせて頂いたときのことです。
「我慢はしないで、嫌だとか嫌いを口に出せる方が、むしろ組織はよくなる」と話をしました。色々な組織を見る機会が多い私の体験からの話でした。
講演を聞いていた私より年配の経営者の方が
「私は、我慢に我慢を重ねてやっと今の位置に来たんです。それを今になって我慢はするななんて言わないでください。」とお怒りでした。
姑さんが意地悪だったようです。

我慢のなれの果てだと思いました。
この人の会社で働く人は我慢を強いられるのだろうなと思います。

我慢の集積によってできる一時の調和が和なのだとしたら、和のために病気になっちゃいますよ。
あっ、現代の豊かなのに病んで見える日本の姿ってそういうことなのかもですね。

和って本当にそんなものなのでしょうか?

聖徳太子の憲法十七条にもどります。
一条「和を以って貴しと爲し」には続きがあります。
然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。
「上司と下僚がにこやかに仲むつまじく論じ合えれば、おのずから事は筋道にかない、どんな事でも成就するであろう。」ということのようです。

和の意味合いが違って感じられます。

立場の違いを超え雰囲気良く議論を尽くしていけば、本質をとらえ、どんなことでもなしとげられるというのが和なのだとすれば、
こっちの和の方が、ポジティブです。

この和を取り戻したい。

令和の「和」は、昭和の「和」とは全く違った「和」であってほしいと願います。
そういう令和になるよう、進んでいきます。


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